私が毒麦だった(かも知れない)原因〈1〉

25才の時でした。1999年でした。

私は洗礼準備の為に、聖ペトロ教会に通っていました。これから洗礼を受ける求道者と、洗礼を受けて一年経たないクリスチャン一年生の大人の為の夜の勉強会に出席していました。

参加者は10人くらいだったでしょうか。当時40代の、聖ペトロ教会主任司祭であるC神父が先生でした。長年の信者でいらっしゃったMさんという女性と、20代の神学生も、助手として参加なさっていました。

質疑応答の時間、50代の求道中の女性から、先祖の仏壇はそのままで良いのか、という質問が出ました。カナダ出身のC神父は、仏壇で先祖を供養するのは構わないとおっしゃいました。一人が、「神父様は代々キリスト教だから先祖のこととか迷うことはないけどねえ…」と呟き、もう一人が相槌を打ちました。

ここで私が質問をしました。

「仏壇の様な形式的な問題はさておき、死んだ先祖はキリストを信じていなかったから、天国には居ないのですよね?」

勉強会の部屋に緊張が走りました。C神父は、不意の質問をされて動揺なさっている様子でした。

C神父「いえ、洗礼していなかったから地獄に居るなんてことはありません」

私「洗礼していなかったからとは言っていません。キリストを信じていなかったからと言いました。

C神父「いいえ、信じていなかったからといって地獄ではありません」

私「でも、教義では…」

ここで、若かった私は語気が強くなりました。その場を取り繕う為に神父が適当なことを言っていると思ったのです。

私「では、救われる人と救われない人の違いは何ですか?」

C神父「神の御心に沿う生き方をしたかどうかです。」

C神父と、勉強会に集まった10人ほどの人々の緊張した面持ちを見て、私はこの辺でひくことにしました。笑顔を作り、「そうですか」と言って終わらせました。みんながホッとした様子でした。助手として参加していた神学生は、下を向いて、何か悩んでいるように見えました。

 

※毒麦・・・名目上はクリスチャンでも、救われていない人のこと。

※救われる・・・天国に入ることが約束されること。教義を正しく理解し、信じれば救われます。