誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます

 「オリロッシュ枢機卿 教会の同性愛についての教え 『もう正しいとは言えない』」

これは、2022年2月20日号の記事です。

「『このことに関する教えの社会学的、科学的根拠は、もう正しくないと私は考えます』とオリロッシュ枢機卿は語った。同枢機卿は、根本的な見直しが必要だとして、教皇フランシスコが同性愛について過去に発言してきたことによって、教義の変更につながる可能性もあると踏み込んだ。」

とありました。「教会の同性愛についての教え」とありますが、教会だけではありません。同性愛については、聖書が旧約・新約一貫して罪であると教えています。

旧約聖書には、モーセの律法にこう記されています。

ー 女と寝るように男と寝てはならない。それはいとうべきことである。ー レビ記 18章22節

新約聖書には、次の二か所があります。

ー それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男同士で恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。ー ローマの信徒への手紙 1章26~27節

ー 正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはならない。みだらな者、偶像崇拝をする者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐくとができません。ー  コリント信者への手紙 一 6章9~10節

コリント信者への手紙にある ー 神の国を受け継ぐことができません。ー  についてですが、信仰のみによって救われるか、悪い行いによって救いが取り去られるかについては宗派などによっても意見が分かれるようです。私は、信仰によって全ての罪は赦される派ですので、これらの行いをしても天国には入れると思っています。文脈から読み解いても、コリント一の筆者は、信仰のない人々は、これらの行いを罪と認識せずに行っている、と言っているようです。

信仰がある人は、罪と知りつつ悪を行ってしまいます。そして、それぞれが持つ罪の傾向と闘うのです。

イエス様は言われました。-「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招いて悔い改めさせるためである。」ー  ルカによる福音書 5章31~32節

ですから、同性愛者も教会に居場所はあります。全ての人は罪びとです。私も霊的、道徳的に病人です。罪びとに寛容なのは良いと思います。

危険なのは、罪に寛容になることです。

最近のカトリック新聞の記事の論調は、聖書が間違っている、現代人の社会学と科学が正しい、同性愛は罪ではない、と言っているものが目立ちます。教会内の一部の聖職者や信者にもこの傾向が見られます。

カトリック教会は、その時代の潮流や権力と折り合いつつ拡張した側面もありますし、これもその一つなのかも知れません。最近の風潮やポリティカル・コレクトネスには沿うのでしょう。

ー 誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。 ー テモテへの手紙 二 4章3~4節

 

 

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