私が毒麦だった(かも知れない)原因〈完〉

2018年か、2019年か忘れましたが、夏でした。久しぶりに、C神父と会う機会がありました。

数年カナダに戻っていたC神父が、名古屋の友人の娘の結婚式に出席する為に来日していました。名古屋の後、聖ペトロ教会を訪ね、ミサを司式なさったのでした。

C神父は聖ペトロ教会の建設に尽力なさった方でした。礼拝堂はほぼ満員でした。Ⅽ神父が司式するミサは、皆にとって懐かしい光景でした。

私とC神父が出会った1999年、私は25才、C 神父は52才でした。あれから20年、お互い、年をとりました。

教会では、C神父は信徒たちに囲まれてしまい、私がゆっくり話すのが難しいことは分かっていました。

ミサの後、信徒が経営する中華料理店で、C神父を囲んでの昼食会が催されました。参加者は事前に募っていて、20人くらいが集まっていました。私も、食事代4千円とC神父への心付け3千円を払って出席しました。

昔、C神父が私に

ーー 信じていなかったからと言って地獄ではありません。(救われる人と救われない人の違いは)神の御心に沿う生き方をしたかどうかです。 ーーー 

と言ったことを覚えているとは思えませんでしたが、教義についての話が出来ればと考えていました。

教会から中華料理店まで、神父を乗せた車に同乗したのですが、運転手が途切れることのないお喋り(色々な人々の近況報告)をしていた為、私は全く話せませんでした。中華料理屋に到着し、運転手が駐車している間、C神父と私は店の前の道路で待っていました。C神父は、私に「暑いね」と声をかけ、私は「はい」と答えました。後から考えれば、この時がチャンスだったのですが、私は、こんな隙間の時間ではなく、店の中で着席してからゆっくり話そうと思っていました。

中華料理屋の2階の座敷席で、C神父の斜め向かいに座りました。しかし、C神父は真顔で正面を向いてしまい、目が合いません。そもそも、皆が和気あいあいと他愛ない雑談をしている中で、真剣な話が出来る雰囲気ではありませんでした。どうやって話を切り出そうかと迷っているうちに、食事も終わりに近付いてきました。隣のテーブルの人達から「神父様、こっちにも来て」と呼ばれて、C神父はそちらに移動してしまいました。移動した先のテーブルでは、神父の携帯で、名古屋で撮った写真を見せながら、皆と笑い合っていました。写真の中には、アプリで顔をデフォルメして加工したものもあり、それらを見ながら、大笑いが始まりました。

もう到底、教義の話をする雰囲気ではないと察した私は、諦めて帰りました。

その後は、C神父に会っていません

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