私が毒麦だった(かも知れない)原因〈7〉
『ユダの福音書』って何だろう?ちょっと調べてみるか
と思ってインターネット検索したのをきっかけに、偶然、ハーベストタイムの中川健一牧師のYouTubeの講解メッセージに出会いました。
2018年の1月ごろだったと思います。
理路整然としたメッセージは、まさに私好みでした。信仰者向けの学問的な解説は、私が求めていたものでした。真剣に神を求めていた十代の頃の探求心が蘇ってきました。すぐにハーベストタイムのスマートフォン・アプリをインストールし、毎日拝聴するようになりました。
アプリでは、メッセージがシリーズ別に分類されています。『聖書入門講座』や、『3分で分かる聖書』で基礎を勉強し直しました。それまで混乱していた救いの条件が、やっと正しく理解できました。
古い順番に、他のシリーズのメッセージも聴きました。豊かな知識に裏打ちされ、信仰と情熱とユーモアに溢れたメッセージはとても面白く、夢中になりました。
2018年の4月、『マタイの福音書』の講解メッセージを聴いていたとき、私は聖霊に満たされました。この瞬間以降は、私は毒麦ではないと、はっきりと言えます。この時の様子については、過去のブログ『御霊を持っているということ』に書きましたので、ご参照ください。
さて、「キリストが自分の罪ために十字架上で死に、葬られ、復活された」という三原則を信じることにで救われると分かった後、気になるのは、C神父が言ったーー 信じていなかったからと言って地獄ではありません。(救われる人と救われない人の違いは)神の御心に沿う生き方をしたかどうかです。 ーーー という言葉です。念のため、私はカトリックのカテキズムを調べました。中川牧師はプロテスタントだから、少し違うのかな、と思ったのです。カトリックのカテキズムを調べたところ、三原則を信じて救われるという根幹は、全く同じでした。違うところは、プロテスタントでは、一度救われたら、救いは永遠に取り去られないのに対し、カトリックでは、大罪を大罪であると分かって冒した場合に、救いが取り去られる、という点でした。細部の違いはあるものの、信仰によて救われるのです。
C神父は間違ったことを教えたんじゃないか・・・
私は思いました。