私が毒麦だった(かも知れない)原因〈6〉

ーーー 信じていなかったからと言って地獄ではありません。(救われる人と救われない人の違いは)神の御心に沿う生き方をしたかどうかです。 ーーー 

というC神父の言葉を強く記憶し、私は教義についてあやふやなまま、年を重ねました。

ミサに出席すれば、神父さんたちの説教を聴くのですが、教義の基本を再確認したとう記憶はありません。大抵の説教は、今週の聖書箇所と身近な例、神父の体験談、あるいは時事の話題を結びつけた上で、なにかの結論に着地する、という構成でした。聖書には触れずに、行事などの話をすることもありました。救いについて深堀りして解き明かしたことがあったか、覚えていません。

私自身、30代は、教会には通っていても、宗教への情熱が薄くなっていて、殆ど聖書の勉強をしていませんでした。

ボランティアで教会の小学生に聖書を教えている夫は、ときどき、私にも分かりやすく聖書の話をしてくれました。

あるとき、救いについてC神父がおっしゃったことを話すと、夫は、

「僕もそう思う。キリスト教徒でなくても、善い人が天国に行くと思う」と答えました。

私「じゃあ、キリスト教徒なら悪い人でも天国に行くの?」

夫「キリスト教徒でも悪い人は天国には入れないと思う。」

それなら、善い人と悪い人の境はどこなのか、と私は問いました。夫にも分かりませんでした。

やはり、救われるかどうかは、死ぬまで分からないということです。

私はどちらに属しているのだろう。もし、救われる方に属していないなら、私は生きている間に善人になれるのだろうか、という不安が残ったままでした。