私が毒麦だった(かも知れない)原因〈4〉
洗礼式は、通常、復活徹夜祭の中で行われます。西暦2000年4月22日の夜、私の洗礼式がやってきました。担当司祭は、当然、聖ペトロ教会主任のC神父でした。
洗礼前に、司祭から信仰の確認が行われます。
「罪に支配されることがないように、悪を退けますか?」「神に反する全てのものをを退けますか?」
「天地の創造主、全能の神である主を信じますか?」「父のひとり子、乙女マリアから生まれ、苦しみを受けて葬られ、死者のうちから復活して、父の右におられるイエス・キリストを信じますか?」「聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、体の復活、永遠の命を信じますか?」
などなどが確認されますので、志願者たちは
「退けます」
「信じます」
と答えます。その後で、一人ひとり名前が呼ばれ、洗礼が授けられました。
感動する人や、パッと明るい顔をする人もいますが、私は、無感動でした。
C神父によれば、救われる人と救われない人の違いは、神の御心に沿う生き方をしたかどうかなのですから、結局、救われるかどうかは死ぬまで分からないということです。洗礼は神の道を歩むという意思の表明というだけなので、大きな変化ではない、と私は思っていました。
C神父から聖書を、代母からロザリオと本を、沢山の人たちからカードを頂き、祝福されて嬉しい気持ちはありました。これから教会の一員として、神の道を歩んでいこう、と思いました。
帰りは、代母のご両親であるKさん夫婦が、車で送って下さいました。車内で今日の洗礼について少し話した後、私の仕事の話題が長くなり、ちょっと愚痴っぽい言葉も出ました。すると、Kさんの旦那さんが、
「なんか、あんまり嬉しそうじゃないな」とおっしゃり、奥様が、
「そうねえ。C神父様、あなた(Kさんの旦那さん)の時は、大丈夫かどうか凄く確認して、洗礼まで2年かかったわよねえ。若い人は方針が違うのかしら」とおっしゃいまいした。
私は、ああ、失敗した。もっと喜んで見せるべきだった。私は感動が薄い人間だからな・・・などと考えていました。
後から考えると、他人から見ても、私には新生の喜びが感じられなかったのだな、と思います。そして、C神父はKさんの旦那さんにはちゃんと信仰の確認をしていたのに、何故私にはしなかったのだろう、とも思います。