私が毒麦だった(かも知れない)原因〈2〉

C神父のおっしゃったことを、私はずっと覚えていました。

ーーー 信じていなかったからと言って地獄ではありません。(救われる人と救われない人の違いは)神の御心に沿う生き方をしたかどうかです。 ーーー 

それなら、キリスト教徒になる意味は何か。

教会に通ったり、勉強会に参加すれば、神の御心に沿う生き方はどんな生き方なのかを教わることが出来る。キリスト教徒になるということは、効率が良いことなのだ。

私はこう結論づけて納得しました。

私の質問で勉強会に緊張が走った夜の後、何か月も、2000年4月の復活祭に向けて、勉強会は毎週開かれました。

C神父から、あの時は不意な質問をされて変なことを言ってしまったけれど、語弊があった、というようなことは言ってきませんでしたので、私はC神父は正しいと思っていました。

あの質問の後も、勉強会が進む中で、C神父と私の間には、何回か軽い苛立ちが生じる場面がありました。

長年の信者で、勉強会の助手をなさっていた50代のMさんという女性が、私と二人だけになったとき、言いました。

Mさん「C神父があなたのことを心配なさっているのよ。何か良いことがあったから洗礼しようと思ったっていうことだけど、若いから…」

勉強会のなかで、洗礼しようと思ったきっかけについて一人ひとり発表したことがありました。確かに私は、良いことが起こって神の愛をやっと受け入れる気持ちになり、教会に通い始めたという経緯がありました。

私「若いと言いますが、私と同年代の人も求道中ですよね。何故私だけ心配するのですか?」

よく覚えていませんが、Nさんははっきりしない返答をなさいました。

後から考えると、C神父は、私が本当に洗礼の準備が出来ているのか、ご心配だったのだと思います。

Nさんを通してではなく、C神父は直接私と話すべきだったのではないかな、と思います。私は何となく、C神父から避けられていたような気がします。