御霊を持っているということ
聖霊を感じたことは、人生で二回あります。
一度目は19才、まだクリスチャンではありませんでした。あの時は、外側から聖霊に触れられたのかな、と思います。この話は今回はしません。
二度目は、44才でした。一度目とは比べ物にならない鮮烈さでした。
2018年の4月の午前中、いつものように、体操をしていました。体操をし乍ら、インターネットで「ハーベスト・タイム ミニストリーズ」というプロテスタントの宣教団体の中川牧師の講解メッセージを聞くのがお気に入りでした。
ハーベスト・タイムに出会い、数か月講解メッセージを聴き続けた頃のことでした。その前まで、あやふやだったり、誤解していた聖書知識と教義を、基礎的な部分は、学び直せていました。
マタイの福音書の十何回目のメッセージだったでしょうか。旧約の予言がイエス様を指し示すことの解説を聴きながら、旧約と新約の一貫した流れについて納得しました。そして、ああ、イエス様は真に救い主だったのだな、と素直に思いました。
突然、幸福感に包まれ、自分の内側に光と熱を感じました。「いま、私は確実に信じた。いま、御霊を持っている」と分かりました。大きな喜びに溢れました。
洗礼を受けたのは26才だったのに。あの時、教義を勉強して、信じると決めたのに。でもあの時は、感動しませんでした。
26才から44才までの18年間を思うと、私の信仰は迷走していたなあ、と今では思います。私は果たして救われていたのでしょうか。正直なところ、分からないのです。
2018年の4月、聖霊が初めて宿ったのか、それとも既に宿っていた聖霊が堅信によって激しく動いたのかは分かりません。
その日から、聖書や教会についての感じ方、見え方が変わってきました。それまで何となく聞き流していた、ミサ中に詠みあげられる一語一句が腑に落ちました。とくに、「信仰の神秘」と司祭が歌うとき、こういうことだったのかと実感します。
世界観や、歴史観までが変化しました。